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大坂屋と東京第一ホテル下関

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赤間関稲荷町の妓楼「大阪屋」

東京第一ホテル下関ホームページにお越しいただき、厚く御礼申し上げます。
当ホテルの現在地は、源平壇の浦合戦で安徳帝と共に滅びた平家一門とのいわれを謳われた
赤間関稲荷町の妓楼「大坂屋」の跡にあたるのでございます。
稲荷町は江戸時代、全国的に知られた遊里で、明治維新で活躍された高杉晋作、伊藤博文先生をはじめ多くの志士たちにとっては、
時に作戦本部ともいうべき場所となり、また浩然の気を養う憩いの街ともなった史跡として維新史にその名をとどめております。
源平合戦から七百年後の幕末、四カ国連合艦隊と砲火をまじえた戦場関門海峡も、
今は平和な潮流をたたえる国際航路でございます。
歴史を偲ぶ本州最西端下関の詩情を味わっていただきたいと存じます。

稲荷町「大坂屋」に見る
源平 維新史

  • ホテル前に設置された石碑
    ホテル前に設置された石碑

    「赤間関(あかまがせき)稲荷町(いなりまち)」は、天和二(一六八二)年に刊行された西鶴の『好色一代男』に登場するのだから、元禄時代にはもう日本じゅうにその名を知られていた。現在下関市赤間町の一部が稲荷町にあたる地域で、町名となったお稲荷さんもそこに健在だ。

    源平合戦からの縁起を誇る遊里だった稲荷町

    壇の浦で敗れた平家の女官が、生活のために春をひさいだのが稲荷町のはじまりという。頼山陽も『新居帖(しんきょじょう)』(文政六年)に平家と稲荷町との因縁を聞き書きしている。

    遊女たちが、安徳帝の命日には綺羅(きら)をかざって御陵に参ったのが先帝祭の起源で、その参拝道中は稲荷町の大阪屋(当時は大坂屋)という妓楼から出発した。

    徳川幕府は、江戸の吉原、京都の島原など全国二十五ヵ所に廓を公許した。稲荷町はその一つで、元禄十四(一七〇一)年に出た浮世草紙『傾城色(けいせいいろ)三味線(じゃみせん)』の番付によると稲荷町は前頭十二枚目であった。
    江戸中期から始まった北前(きたまえ)航路(こうろ)の中継交易港となってから、下関は商業都市として繁盛し、元禄時代には四百軒の問屋が、ひしめいたのである。
    日本海沿岸と瀬戸内海、近畿を結ぶ北前航路のほかに九州との地回り廻船も下関から出た。ここは海の十字路だった。出船千艘入船千艘といわれ、赤間関(下関の古称、馬関(ばかん)ともいった)の港には、諸国から入ってくる船が、何日か碇泊した。北前船のお大尽(だいじん)たちは、真っ先に稲荷町をめざすのだ。

    最大の妓楼だった場所に立つ東京第一ホテル下関

    大阪屋はこの町では最大の妓楼だった。当主は代々木村太良右衛門を名乗り、第二次大戦の空襲で焼けるまでは、三階建ての豪華な店構えがまだ遺っていた。「東京第一ホテル下関」がその位置にあたる。

  • 2015年8月30日(日)除幕式
    2015年8月30日(日)除幕式

    大阪屋は歌舞伎舞台も店内に備えており、桟敷は三百人収容、舞台は江戸の湯島芝居よりも広かったと、長久保玄珠の『長崎紀行』(明和年間)に出ている。

    日本史の奔流もこの地を直撃した。稲荷町は、源平合戦から維新まで、激動の歴史と共にあゆんできた。

    文久三(一八六三)年五月、長州藩は関門海峡でアメリカやフランスなど外国船への砲撃を開始した。維新史で名高い攘夷戦(じょういせん)である。関門海峡と下関は、国際紛争の過熱地点となった。

    高杉晋作が、下関で奇兵隊を結成し、朱鞘の大刀を腰にぶちこんだ壮士が稲荷町を闊歩したのもそのころである。土佐の坂本龍馬もやってきたし、長州の志士では桂小五郎、久坂玄瑞、伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)、山県狂助(有朋)といったそうそうたる顔ぶれが、戦陣の暇をみつけてくりだしてきたのも稲荷町である。彼らはいずれも大阪屋の常連だった。戦いのなかで幾組かのラブ・ロマンスも花を咲かせた。

    連合艦隊との講和が成立したあと、伊藤俊輔、井上聞多はイギリスの通訳官アーネスト・サトウを大阪屋に招いて、晩餐会をひらいた。『一外交官の見た明治維新』のなかにサトウはそのときのことを書き「この饗応は、日本のこの地方で洋食の食事を出した最初のものだったに違いない」とメニューも紹介している。

    伊藤博文も訪れた大坂屋

    伊藤博文は明治四十二(一九〇九)年十月のはじめ、志士時代の思い出にひかれて独り大阪屋を訪ねたが、顔見知りの女将は不在だった。うっそりと店頭に立った老人を、店の者はこれが初代内閣総理大臣だった人とは知らず、すげなく追い返した。満州に旅立つ前夜だったのである。伊藤は哈爾賓(はるぴん)で暗殺され、ニ度と帰らぬ人となった。

    稲荷町についての話は尽きない。時のうつろいと共に消えて行った大阪屋の跡に、今は近代的なホテルが建っている。遠近からの客がその同じ場所に泊まり、食事をして、本州西端の旅情を味わっているのもまた歴史の縁というものかもしれない。

下関在住 直木賞作家古川 薫

稲荷町覚書

料亭「大阪屋」の長男として生まれ、馬関稲荷町界隈で育った木村義男氏が、書かれたものです。
昭和37年7月〜8月の間に地元新聞(夕刊)に10回連載で掲載された記事に当時の様子が綴られてます。

稲荷町覚書

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